大変遅くなってしまいましたが、去年末に行ってきた東日本大震災支援活動のレポートを、今日から何回かに分けてご報告させて頂きます。

去年活動中にアップしたblogと多少重複しますが、東北から帰ってきてこの方、毎日東北の事を考えて自分なりに向き合った結果、このblogを読んで頂いている方が一人でも多く、被災地へと思いを馳せて頂ければと思いますので、おさらいも含めてしばしお付き合い頂ければと思います。
12/29の夜明け前に地元阿佐ヶ谷駅前を出発し、途中のSAで兵庫の子どもNGO『懐』本隊チームと合流し、東北道を一気に北上し、先ず目指したのは石巻市立大川小学校跡。

大川小学校へ訪れたのは、この日で4回目。

今では学校の周りは殆どさら地となり、聞こえるのは耳を切る様に冷たい強風の音だけ。

しかし初めて訪れた11年の7月は、まだ学校の周りに山の様に瓦礫が積み上げられていて、行方不明の子どもを探す自衛隊員達の姿が見え、何台もの重機がけたたましく音を上げて作業をしていました。
2011年7月25日大川小学校
(※写真は2011年7月25日)
大川小学校での献花と読経後、我々は出来るだけ海沿いのルートを通り、女川の町へ。

この女川町でも、自分は震災後の4月9日に、トラックに物資を積んで高森代表、M下教諭、櫻田会長、大学生2人と共に訪れ、自宅避難者ゆえに充分に支援物資を受取っていない集落を訪れていました。
女川自宅避難集落
(※写真は2011年4月9日当時のモノです)
その時は震災後まだひと月経っていないという事で、瓦礫は殆どそのまま。道路は自衛隊が開いてくれたおかげでやっと通れる様にはなっていましたが、車から降りると今まで嗅いだ事の無い鼻を突く匂いが町全体を覆っていたのを、強烈な記憶として覚えています。
女川町1(2011年4月10日)
(※写真は2011年4月9日当時の女川の町です)
女川町2(2011年4月10日)
(※写真は2011年4月9日当時の女川の町です)
現在の女川の町は、殆どの津波被害の町がそうである様に、全体がさら地に整備されており、震災直後を思い出させてくれるのは、自分が映したこの震災遺構と呼ばれる宿泊施設だったらしい建物だけ。
女川町震災遺構

この他に薬局だった建物と、交番施設だった建物の計3つが、津波に押し倒されて未だに解体されずに残っているが、その内交番だった建物だけを残して、他の2棟は地盤のかさ上げ工事の妨げになるため、解体撤去されるとのコトです。

震災遺構の保存に関しては様々な意見があり、当事者ではない自分には何も語る権利はないかもしれないが、震災遺構のコトを考えると、戦争を知らない自分が広島の原爆ドームと原爆資料館を見たとき、教科書では一通り学んでいたはずの出来事だったのに、それらが全く学んでいなかったと同じと思える様な衝撃を受けたのを思い出します。

うず高く積まれた瓦礫が綺麗になくなり、毎年訪れる度に町に新しい建物が増えて行くのは本当に嬉しいコトなのだが、3・11以降この国をある意味大きく変えてしまった程の出来事を、50年後、100年後の後世に伝えていく為には、震災の爪痕をリアルに残す遺構の保存を、地域の住民と行政の長とが一体となって取り組んで行くべきなのではないかと、勝手ながらに思っております。
We Love 女川


続きます。

成瀬昌由