この日(7/25)9時過ぎに東松島市野蒜小体育館で献花をし、同小学校木島校長先生に子ども達のための支援金を直接お渡しし、女川に移動。

女川では4月の活動でご縁の出来た2つの集落に持参したお土産を手渡し、その後のご様子を伺いました。

そこから「被災地をその目で見て周り、感じ・考える」ために、海岸沿いの道路を北上し、大川小学校では献花をさせて頂き、南三陸町では野次馬にも間違われました。

そこからまたさらに北上して行き、最終的に岩手まであと少しとなる気仙沼にたどり着いた所で、我々はとうとう日没を迎えようとしていました。気仙沼・鹿折唐桑駅付近
最後に車を停めたのは、気仙沼線・鹿折唐桑駅付近。気仙沼・第十八共徳丸

気仙沼の被害も惨憺たる状況でした。

5月にお一人で訪れた高森代表は、これでもだいぶ片付いた方だと仰っていましたが、自分を含め初めて来たそれ以外のメンバーは、その被害を受けた町の規模の大きさに絶句しています。

ただ、これは自分自身なんと表現したら良いのか、麻痺したというか、怖いというか、不思議といったらよいのか・・・。

一日掛けて東松島・石巻・女川・南三陸町・気仙沼と海沿いの町約150km(片道)を北上して行くと、この惨憺たる光景に慣れてしまうというか、当たり前の様な感覚になってしまうのです。

それは車に同乗してくれたT君も同じ様なコトを言っていました。

ただ想うのは、この太平洋沿い150kmの道のりを半日かけて北上していく途中には、いくつもの家々や小さな集落が建物の基礎部分だけを残して、跡形もなく消え去っています。

その移動距離×時間のあいだには、いったいどれだけの生命と財産、そこに住み生活されていた方たちの思い出や記憶が、この大震災と津波で失われてしまったのだろうと考えると、途方にくれ無力感に陥ってしまいます。

しかし、この震災を通して様々なことを学ばせて貰っている自分は、そこで立ち止まらずに継続的な支援が個人的にも公的にも続けて行ける様に、自分に出来るコトを考え続けていき、この震災を風化させず周りの人たちに伝えていくコトも役目の一つなのだろうと思います。

打ち上げられた大型漁船近くの瓦礫に、写真らしきモノが落ちてるので近づくと、宇多田ヒカルのCDアルバムでした。
気仙沼・町の跡

自分も同じモノを持っていますが、この持ち主はご無事避難されたのだろうか?
First Love


完全に日が沈み、我々は仙台へと戻ります。
この日の宿泊は仙台駅近くのビジネスホテルです。同じ宮城県内でも、こっちの方が自分の日常と同じのはずなのだが、昼間見てきた景色とはまったく違う町の様子に、またアタマと心の感覚がアジャストしません。

東松島市野蒜→女川町→大川小学校→南三陸町→気仙沼鹿折唐桑までの移動ルート・約150km